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シーティス (HMS ''Thetis'' (N25)) はイギリス海軍のT級潜水艦の一隻。本艦は2つの艦名で就役した。最初のシーティスとして1939年3月4日に洋上試験を開始し、試験期間中の6月1日に沈没して99名の犠牲者をだした。その後引き揚げられ修復されるとサンダーボルトとして就役し、1943年3月14日に全乗組員と共に失われるまで大西洋と地中海戦域で任務に就いた。 ''シーティス''は、その就役期間中に2度に渡り乗組員と共に失われるという事態にみまわれた稀有な軍艦の一隻である。 == ''シーティス'' == ''シーティス''は、イングランド、バーケンヘッド(Birkenhead)にあるキャメル・レアード造船所(Cammell Laird)で建造され、1938年6月29日に進水した。完成後の試験は艦首潜舵(hydroplane)の不具合により遅れたが、ようやくガイ・ボラス(Guy Bolus)少佐指揮の下でリバプール湾(Liverpool Bay)で開始された。''シーティス''は、最終の潜航試験を実施するためにタグボートの''グリーブコック''(''Grebecock'')を伴ってリバプール湾に向けてバーケンヘッドを出港した。通常の乗組員は59名であったが、キャメル・レアード造船所の技師とその他の海軍関係者を含めて総員103名が乗船していた。最初の潜航が1939年6月1日14:00時に試みられが、潜航するには軽すぎることから艦内の様々なタンク内の水量が調べられた。調査されたものの一つが、魚雷発射管内に注水されているかどうかということであった。 魚雷担当士官のフレデリック・ウッズ(Frederick Woods)大尉は、発射管のテスト弁を開いてみた。不運なことに第5魚雷発射管のテスト弁はエナメル塗料(enamel paint)で塞がっていたために発射管前方扉が開いているにもかかわらず水は漏れてこなかった。テスト弁を貫通させるための錐が備わってはいたが、これは使用されなかった。このことと発射管扉開閉指示器の間違いやすい配置 - 縦に1番、2番、3番、4番、6番の5つとその下に5番発射管の指示表示盤が並び、各指示表示盤上では第5発射管の開閉指示表示はその他の発射管のものとは異なる表示位置であった - が、発射管後方扉を開かせることにつながった。流れ込む激流により艦首は水深の海底に沈んだ。 救難ブイが放たれ、発炎筒が焚かれた。16:00時に''グリーブコック''が''シーティス''の異常に気付き、ゴスポート(Gosport)の''ドルフィン''潜水艦基地へ無線で報じると即座に捜索が開始された〔Submarine losses 1904 to present day , RN Submarine Museum, Gosport〕。艦尾は海面に出ていたが、定員過剰、艦内の気圧増加と救出活動開始までの20時間の遅れによる二酸化炭素中毒によりその他の搭乗者が犠牲になる前に脱出できたのは僅か4名の乗組員のみであった。この事故で通常の乗組員53名に加え、キャメル・レアード造船所の26名、その他の海軍将校9名、ヴィッカース・アームストロング社の社員4名、業者2名の合計99名の生命が失われた。捜索活動のために派遣されてきた駆逐艦ブレイズンは、自艦の存在を知らせるために小型の爆雷を海中に投下しており、乗組員たちはブレイズンが''シーティス''を発見するまで艦からの脱出を待機していた。 この事故により造船所に対して弁を塞いでいた付着物を取り除かなかったという過失を主張する一人の寡婦からの訴訟が提起された〔Duncan v Cammell Laird AC 624〕。この寡婦にとっては不幸なことに海軍当局は国王の特権(Crown Privilege、現在は「公益を理由とする秘匿特権」:Public Interest Immunityという名称で知られる)を発動することに成功し、「公益を侵害する」という理由に基づいてその他諸々と共に「''シーティス''の船体及び機器類に関する契約」を裁判所の証拠物件として開陳することを封じた〔Roberts, David '' HMS ''THETIS'' - Secrets & Scandal''〕。この裁判は、担当裁判官が何の精査も無く額面通りに海軍当局の主張を受け入れて後に判決が覆ったという点で英国法の中でも興味深い案件の一つである。 沈没した艦の引き揚げ作業は、リバプール・アンド・グラスゴー・サルベージ協会(Liverpool & Glasgow Salvage Association)に委任され、引き揚げ作業が完了したときに''シーティス''から外された船鐘が海軍当局から同協会へ贈呈された。贈呈された船鐘は、現在マージー海洋博物館(Mersey Maritime Museum)に展示されている。 引き揚げ作業中に発生した更なる悲劇は、ダイバーのヘンリー・オットー・パーデュー(Henry Otho Perdue)軍曹が1939年8月23日に「ベンド」が原因で死亡したことであった。9月3日の日曜日に''シーティス''は、アングルシー島のレッド・ワーフ湾(Red Wharf Bay)に一旦意図的に座礁させられた。それは開戦が布告された日であった。引き揚げ班によりまだ収容されていなかった遺体はこの時に運び出され、最高儀礼の海軍葬をもって葬られた。 潜水艦乗組員以上の損失は、犠牲者の中に2名の海軍造船技師とキャメル・レアード造船所の潜水艦班の数名が含まれていたことであった。経験豊富な潜水艦の設計技師と造船技師は、戦争期間中に必要とされる人材になるはずあった〔Brown DK, ''Nelson to Vanguard'' p113〕。 ''シーティス''の悲劇は、そのちょうど1週間前にニューハンプシャー州の海岸沖で沈んだ米海軍潜水艦スコーラスからの救出作業の成功とは対照的な出来事であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シーティス (潜水艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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